幼少時代から三度の食事より体を動かす事が大好きな少年でした。小学校に入学してからは、遊び、柔道、野球に毎日明け暮れて勉強もろくにしないいわゆる悪ガキでした。しかし、柔道に於いては神奈川県大会個人戦3年連続優勝、全国大会出場という戦歴がありましたが、野球狂の親父の一言で(親父は怖かったので・・)中学に入学した時は柔道を辞め、野球に専念する事になってしまいました。
中学2年の春、いわゆる中2病?なのでしょうか・・。放課後の部活動には全く参加せず、学校の裏門(厳密には裏の塀をよじ登って)から逃げだすように下校し、夜、夜中繁華街のゲームセンターに通っては友達を作り、遊びを覚え、『もう野球はいいや!遊んでるほうが楽しいや!』そんな気持ちになってました。
しかし、自分を変えてくれたのはやはり野球狂の親父でした。『目標を持ったなら最後までやり遂げろ!結果はどうあれ最後まで諦めるな!』それからは練習、練習、勉強もせずに猛練習でした。私の目標は甲子園出場、そして全国制覇でした。中学3年の夏大会には見事、相模原市大会で優勝する事ができ、またまた人生の方向が変わっていく事になりました。高校は相模原市内にある東海大学相模高校に入学しました。高校1年生から寮生活となり本音を言うと、それは厳しく辛い毎日でした。全国から猛者が集まってきて野球漬けの毎日、寮生活では毎日22:00消灯、3時間後の1:00起床(1年生だけです)、それから先輩ユニホームを気合いの洗濯(相模高校野球部では気合い洗といいます)、自腹でのコインランドリー乾燥、朝4:00からは、うとうとしながらのボール磨き、6:30起床(1年生はとっくに起きてます)7:00朝食の支度と寮内外掃除、8:10登校・・・教室についたら即睡眠。
昼休みまで爆睡です(先生は寮での生活を知っていたせいか注意された事はありませんでした)。そして16:00から19:00までグランド練習。19:00からナイター練習、自主トレ、そして先輩からの説教。16歳の私はホームシックになってしまう事もしばしばありました。結果的には3年間続けて良い経験となり、今でも同じ釜の飯を食った大勢の同期とお付き合いさせて頂いています。
その後、東海大学(体育学部体育学科)に進み教師を夢見ていましたが、持ち前の怠け癖が出てしまい、見事2年生で早々中退しました。そんな私を救ってくれたのも高校時代の野球部恩師故原貢監督でした。『サムスポーツクラブのインストラクターとして働きに来い。』の一声で就職が決まり、トレーニング、勉学の日々でした。後、ある事情でスポーツクラブは閉鎖になり、数か月間、路頭に迷っていた時、佐川急便の募集があり佐川急便(株)厚木店に入社が決まりました。ドライバー職を隔て、管理職、そして営業責任者となり、神奈川県伊勢原市、平塚市、中郡を主に営業活動を行うこととなりました。佐川急便に入社して15年目の夏、伊勢原市にあるバイオコスモ様に営業に伺った際、市岡隆司社長との会話の中で、管轄エリア外の群馬県赤城村でキャベツの集配を依頼されました。『出来ます!』と約束をしてしまったのですが、内心は不安でいっぱいでした・・。